二ヶ月後に辞める私が、三年後の話をするキックオフに座っていた
最終出社は六月三十日。それが決まってから入った案件で、私は車検の案内を四十五日前から九十日前に動かす話に本気になった――日野が、自分のものではない仕事について書いた記録。
四月十七日に退職を伝えた。最終出社は六月三十日と決まった。
日野です。三十二歳、入社七年目。次は事業会社の経営企画に行く。
五月一日から、最後の案件に入ることになった。
アサイン ―― 二ヶ月だけ
連絡してきたのはマネージャーの都留さんだった。
「日野さん、六月末までだよね。二ヶ月だけ入れない?」
私は「入れます」と答えた。
有給は二十三日残っていた。全部消化すると五月の半ばから休むことになる。人事に確認したら「買い取りはありません」と言われたので、十日だけ消化して、残りは捨てることにした。捨てた十三日ぶんの金額を、あとで計算した。三十八万円くらいだった。計算しなければよかった。
案件は、自動車の販売会社だった。いわゆるディーラーで、県内に十九拠点ある。年間の新車販売が約六千台。
依頼は、整備と車検の事業をどう伸ばすか、だった。
新車の粗利が薄い。売っても、ほとんど残らない。この会社の場合、利益の七割近くがアフターサービス――整備、車検、部品、それから保険の手数料――から出ていた。
つまり、車を売る会社ではなく、売ったあとの車を面倒みる会社としての設計が要る。そういう話だった。
五月十二日 ―― キックオフ
キックオフは先方の本社で行われた。
社長と、サービス本部長と、営業本部長と、各拠点のサービスマネージャーが六人。こちらは都留さんと私と、若手が二人。
都留さんが冒頭で、この取り組みの三年後の姿を説明した。整備の売上構成比を何パーセントに持っていくか。そのために一年目に何をやるか。
私は右端に座って、資料をめくっていた。
三年後の話を聞きながら、自分は七週間後にいない、と思っていた。
会が終わって、サービス本部長が私のところに来た。五十代の、日焼けした人だった。
「日野さん、来年もよろしくお願いしますね」
私は「はい」と言った。
そのあとで、都留さんが「言えばよかったのに」と笑った。言えるわけがない。初回の顔合わせで「私は六月末で辞めます」と言う場面ではなかった。
結局、最後まで言わなかった。この話は、後記でもう一度出てくる。
立ち上がり ―― リフトが空いている
最初の三週間は、拠点を回った。十九拠点のうち、十一拠点。
サービス工場というのは、車を上げるリフトが並んでいる場所だ。私はそれまで、自分の車の点検で待合室に座ったことしかなかった。
工場の奥に入れてもらって、最初に気づいたのは、リフトが空いていることだった。
拠点によるが、平日の午前中に、六基あるリフトのうち二基しか動いていない店があった。夕方になると混む。土曜は朝から満杯になる。
サービスマネージャーに聞いたら、「そういうものです」と言われた。
「予約、どうやって取ってるんですか」と聞いた。
「電話です」
「ウェブは」
「一応ありますけど、使う人が少なくて。あと、ウェブで入った予約は、こっちで一回電話して確認します」
つまり、ウェブ予約は電話予約の前段階になっていて、工数はむしろ増えていた。
メカニックの平均年齢を聞いたら、四十一歳だった。若い人が入ってこない。二十代が全体の一割八分。この話は、私の担当ではなかったが、頭には残った。
拠点によって、工場の空気がまるで違うことにも驚いた。
ある店では、フロントの受付が整備の内容を自分の言葉で説明していた。「今日はここを見て、ここは次回でいいと思います」と、客に紙を見せながら話す。別の店では、見積書をそのまま渡して「こちらになります」と言うだけだった。
前者の店は、追加整備の受注率が三十四パーセント。後者は十一パーセント。
私が「受付の人、教育してるんですか」と聞いたら、前者の店のサービスマネージャーは「いや、あの子が勝手に」と言った。
勝手にやっている人が、いちばん数字を出している。それが標準になっていない。この構図は、業種が変わっても毎回出てくる。毎回出てくるので、毎回「またこれか」と思う。思いながら、いつも同じくらい面白い。
五十八パーセント
私の担当は、入庫率の分析だった。
入庫率というのは、自社で売った車の顧客が、車検のときに自社の工場に持ってきてくれる割合のことだ。
数字を出した。
一回目の車検、つまり新車から三年目。これは八十四パーセントだった。高い。新車保証の関係もあるし、購入時に車検のパックを付けている人も多い。
二回目、五年目。五十八パーセント。
三回目、七年目。四十一パーセント。
一回目から二回目で、二十六ポイント落ちる。ここが問題だった。
落ちる理由として、社内では「価格差」が定説になっていた。ディーラー車検は、量販店やガソリンスタンドの車検より高い。実際、この会社の平均は八万二千円で、地域の量販店は五万円台から出している。
私は、失注した顧客のリストを千二百件、拠点から集めてもらった。どこに流れたのか、いつ流れたのかを見た。
そこで、価格ではないものが見えた。
タイミングだった。
この会社の車検の案内DMは、満了日の四十五日前に発送されていた。
流出先の量販店は、九十日前にハガキを出している。地域の整備工場は、口コミと電話で、もっと早く動いている。
四十五日前に案内が届いたときには、多くの顧客が、もう別のところで見積もりを取っていた。
千二百件のうち、他社で予約した日が分かるものが四百十件あった。そのうち二百六十七件が、満了日の四十六日以上前に予約していた。
つまり、この会社のDMが家に着く前に、六割五分の顧客は決めている。
価格の比較の土俵に、そもそも乗っていなかった。
反論された
この話を、五月の最終週に一度、社内で都留さんに出した。
都留さんの反応は、思ったより冷たかった。
「日野さん、それ、逆じゃない?」
彼が言ったのは、こういうことだった。他社で早く決めている顧客は、そもそも最初から他社に行くつもりの層かもしれない。価格志向が強い人は、早くから相見積もりを取る。だとすれば、早く動いているのは原因ではなく、結果だ。
言われて、私は詰まった。
反論できるだけの材料を持っていなかった。持っていないのに、「タイミングです」と言い切ろうとしていた。
そこから一週間かけて、二回目の車検の失注者を、購入時の値引き額で三つに分けた。値引きを多く引き出した層――つまり価格に敏感な層――と、そうでない層で、他社予約のタイミングに差があるかを見た。
差は、ほとんどなかった。値引き額の大小にかかわらず、四十六日以上前に決めている割合は六割前後だった。
つまり、価格志向の層だけが早いのではない。単に、先に声をかけられたほうに行っている。
これを持っていったら、都留さんは「うん、これなら言える」と言った。
一週間かかったが、この一週間がなければ、六月十一日に本部長を説得できなかったと思う。
本気になってしまう
この筋が固まったのが、六月三日だった。
私の最終出社まで、二十七日。
普通に考えれば、ここで私がやるべきことは、この分析を整理して、後任に渡すことだ。分析はもう出ている。あとは引き継げばいい。
私は、引き継がなかった。
代わりに、DMの発送タイミングを変える実験の設計を始めた。三拠点で、九十日前に前倒しする。文面を二種類作って、比較する。効果を測る指標と、期間と、必要な承認。
なぜやったのか。
面白かったからだ。それ以外にない。
七年やってきて、あの三日間くらい、素直に面白かった時期は数えるほどしかなかった。もう自分のものではない仕事だ、と分かっていた。分かっていたから、余計に軽い気持ちで手が動いた。
責任のない状態で仕事をするのは、こんなに楽しいのか、と思った。それはたぶん、あまり良いことではない。
六月十一日に、その実験設計を先方のサービス本部長に説明した。
本部長は「これ、いつからできます?」と聞いた。
私は「七月の第一週から発送を切り替えれば、九月の満了ぶんから効きます」と答えた。
答えてから、七月に自分がいないことを思い出した。
生活 ―― 六月の四回
六月は、送別会が四回あった。
同期、前の案件のチーム、部門、それから同じフロアの人たち。同じ話を四回した。四回目には、笑いどころが分かるようになっていた。
三回目の会で、二年下の子に「日野さん、なんで辞めるんですか」と聞かれた。
私は「体力かな」と答えた。半分本当で、半分は嘘だ。
もう半分は、この仕事で自分が何を残したのか、七年経ってもうまく言えないからだった。それは、その場で言う話ではなかった。
年収は千五十万円だった。転職先は九百二十万円。百三十万下がる。下がるのは分かっていて決めた。
家は変えていない。家賃十四万二千円の1LDK。六月に更新料を払った。
体重が、四月から六月で三キロ減った。理由は分からない。辞めると決めてから、なぜか食欲が落ちた。安心して落ちるのか、緊張して落ちるのか、自分でも判定できなかった。
六月二十四日 ―― 最後の拠点
最後に行った拠点は、県の南のほうの、いちばん古い店だった。
昭和の建物で、待合室のソファが緑色だった。サービスマネージャーは五十四歳の人で、この店に二十九年いる。
その人に、入庫率の話をした。四十五日前のDMのことも話した。
聞き終わって、彼はこう言った。
「そうなんですよね。うちの店は、私が個人的に、車検の一年前に電話してますよ」
私は「一年前ですか」と聞き返した。
「はい。だいたい、一年点検のときに『来年の何月ですね』って言っておく。それだけです」
この店の二回目車検の入庫率を、その場で調べた。
七十九パーセントだった。十九拠点で断トツの一位だった。
私は、その数字をすでに見ていた。見ていて、「古い店で顧客が固定的だから」と解釈していた。解釈して、それ以上調べなかった。
答えは、四月から拠点別のデータの中にあった。私は五月と六月をかけて、千二百件の失注リストを分析して、同じところに辿り着いた。
先に一位の店に話を聞きに行っていれば、二週間で終わっていた。
分析から入るのが癖になっている。データのほうが、人に会うより手前にあるからだ。手前にあるものから手をつけるのは、効率がいいように見えて、たいてい遠回りになる。
帰りの車で、都留さんに「先にあの店に行くべきでしたね」と言った。都留さんは「まあ、そういうもんだよ」と言った。慰めではなく、本当にそう思っている口ぶりだった。
六月三十日
最終出社の日、私は引き継ぎメモを二時間で書いた。
本当は三日かけるつもりだった。三日ぶんの時間は、DMの実験設計に使ってしまった。
メモはA4で六枚になった。分析の手順と、データの置き場所と、先方の誰が何を持っているか。
二時間で書いたものだから、抜けがある。抜けがあるのは分かっていた。分かっていて、十八時に閉じた。
十九時から、最後の送別会だった。
後記 ―― 人づてに聞いた
十一月に、元同僚と飲んだ。
あの案件の話になった。DMの前倒しは、七月から三拠点で始まって、九月からの満了分で入庫率が上がったらしい。五十八パーセントが、その三拠点では六十六パーセントになったと聞いた。
嬉しかった。素直に嬉しかった。
そのあとで、もう一つ聞いた。
私の分析のなかで、「他社で予約した日が分かるもの四百十件」というのが、いつのまにか「失注千二百件のうち六割五分が四十六日以上前に決めている」という書かれ方に変わっていたらしい。
分母が違う。四百十件のうちの二百六十七件であって、千二百件のうちではない。
たいした差ではない、と言う人もいると思う。方向は同じだ。ただ、四百十件は「他社の予約日が判明したもの」だけなので、そもそも偏っている。そこを断らずに全体の話にすると、次に検証したときに数字が合わなくなる。
私が二時間で書いたメモに、そのことは書いていない。書いたつもりでいた。いま思い返すと、頭の中では何度も注意していて、紙には落ちていない。
訂正する方法が、いまの私にはない。もう社員名簿にいない人間が、半年前の案件の分母のことでメールを出すのは、たぶん違う。
たまに考えるのは、キックオフの日に「来年もよろしくお願いしますね」と言われて、「はい」と答えたことだ。
あれは嘘だった。悪気のない嘘で、その場では最適な返事だったと思う。
ただ、あの「はい」から始まった二ヶ月で、私はいちばん楽しく仕事をして、いちばん雑な引き継ぎをした。
その二つが同じ二ヶ月に入っていることが、いまでも少しおかしい。
この体験記はフィクションです。実在の企業・案件・人物とは関係ありません。
しかし、あなたが経験するであろうコンサルライフに、限りなく近い何かかもしれません。