三ヶ月かけて選んだ二十七文字を、納棺の人は一度も口にしませんでした
言葉を成果物にする案件を、私は初めてやりました。納品したものに、重さがありませんでした――岡野が、自分の作った二十七文字について書いた記録です。
十二月十二日の役員会議室で、私はA3のボードを一枚立てました。そこに書かれていたのは、二十七文字でした。
岡野です。三十五歳。入社して九年目になります。
アサイン ―― 言葉をつくる
クライアントは、葬儀の会社でした。
年間の施行件数がおよそ六千八百件、自社のホールが十四、従業員は三百二十人。地域では大きいほうですが、全国から見れば中堅です。創業者の息子が、五年前に社長を継いでいました。五十二歳です。
依頼は、理念体系の策定でした。パーパス、ミッション、バリューと呼ばれるものを作って、社内に浸透させる。期間は策定に三ヶ月、浸透の支援に二ヶ月。
理由は、二つ聞きました。
一つは、人が採れないこと。新卒の応募が、五年で半分以下になっていました。もう一つは、同業の再編が進んでいて、このままだと自分たちが何者かわからなくなる、ということでした。
社長は、初回の打ち合わせでこう言いました。
「うちが何のためにあるのかを、うちの言葉で言えるようにしたいんです」
私は、それを議事録にそのまま書きました。いい言葉だと思ったからです。
立ち上がり ―― 四十人に聞く
やることは、決まっています。
経営陣に方向性を聞き、社員に話を聞き、集めた言葉を整理して、候補を作り、絞る。教科書どおりです。
社員インタビューは四十人にやりました。ホールの支配人、営業、事務、生花、納棺、送迎の運転手、それからコールセンター。若手から五十代まで。
一人四十五分。私はそのうち二十六人を担当しました。
聞くことは、三つです。この仕事をしていてよかったと思った瞬間。この会社を辞めようと思った瞬間。そして、お客様に対して自分が大事にしていること。
三つ目の答えは、驚くほど揃っていました。
「ご遺族に寄り添うこと」
「最後のお別れを、心をこめてお手伝いすること」
「後悔のないお見送りをしていただくこと」
四十人のうち、三十人以上が、この三つのどれかを言いました。
言葉としては、いいものです。ただ、これを並べて理念にすると、たぶん、同業のどこと入れ替えても成立します。私が知っている限り、この業界の会社のウェブサイトには、だいたい同じことが書いてあります。
平均が集まると、平均になります。それは、聞き方の問題でもありました。
辞めようと思った瞬間
二つ目の質問のほうが、答えはばらけました。
いちばん多かったのは、時間の話です。この仕事は、亡くなる時間を選べません。深夜に電話が鳴って、車を出す。二十四時間の当番が、月に六回か七回ある。若い社員の三人が、そこを理由に挙げました。
ただ、私が覚えているのは、別の答えのほうです。
入社三年目の女性が、こう言いました。二十五歳です。
「同級生に、仕事なんて聞かれるじゃないですか。葬儀屋です、って言うと、空気が止まるんですよ。止まったあとに、みんな『立派だね』って言うんです」
彼女は、そこで少し笑いました。
「立派だねって言われると、もう、その話は終わりなんですよね」
私は、それを議事録に書きました。書きながら、これは理念で解けるのだろうかと考えました。
いま考えると、この二つ目の質問の答えのほうが、この会社の課題に近かったのだと思います。人が来ないのは、この会社に言葉がないからではなくて、この仕事が外からどう見えるかの問題でした。
私たちが受けていたのは、理念策定の案件でした。だから、私は一つ目と三つ目の答えを主に使いました。
十月 ―― 一人だけ違ったこと
二十六人のうち、一人だけ、違うことを言った人がいます。
納棺を担当している男性でした。五十六歳。この会社に来る前は大工をしていたそうです。手が大きくて、指の関節が太い人でした。
三つ目の質問をしたとき、彼はしばらく黙りました。二十秒くらいだったと思います。
それから、こう言いました。
「言わないことですかね」
私は、聞き返しました。
「あの部屋で、こっちが何か言うとね、ご家族が返事しないといけなくなるんですよ。返事する余裕がないときに、返事させちゃう」
だから、必要なこと以外は言わない。手順の説明と、お願いすることだけ。あとは黙って手を動かす。
彼は最後に、こう付け足しました。
「だから正直、理念とか、要らないと思います」
私は「そうですか」と言いました。
そのあと、五分ほど別の話をして、インタビューを終えました。
会議室を出て、駐車場まで歩くあいだ、私はこのやりとりをどう扱うか考えていました。
いま書いていると、答えは簡単に見えます。この人の言ったことが、この会社の芯でした。「言わないこと」で成り立っている仕事だと、四十人のうち一人が言った。そこから作るべきだった。
私は、そうしませんでした。
十一月 ―― 二十七文字にする
言葉を作る作業は、想像していたより肉体労働に近いものでした。
インタビューの記録から、印象に残った表現を全部抜き出します。四十人ぶんで、六百二十いくつありました。それを付箋に書いて、会議室の壁に貼って、意味の近いものでまとめていきます。
二日かかりました。二日目の夕方、私は壁の前に立って、自分が何をまとめているのかがわからなくなりました。
「寄り添う」の束が、いちばん大きい。次が「丁寧」。三番目が「地域」。
この三つで、全体の六割を超えます。
高瀬さんが「岡野、これ、束が大きいところから作ると平均になるよ」と言いました。
私は「わかってます」と答えました。
わかっていましたが、では小さい束から作るのかというと、それは根拠が弱くなります。四十人に聞いて、一人しか言わなかったことを会社の理念にする。その説明を、私は経営陣にできる自信がありませんでした。
結局、私は大きい束を土台にして、小さい束から言葉の質感だけを借りる、という作り方をしました。折衷です。
折衷は、たいてい、うまくいきます。うまくいったものが、あとで思い出せなくなることには、そのとき気づいていませんでした。
候補は、九つ作りました。
九つを、経営陣と部長職の十四人で、二回のワークショップにかけました。投票をして、絞って、文言を直して、また投票する。
最後に残ったのは、二番目に票が多かった案でした。いちばん票が多かった案は、社長が「これは、うちじゃない」と言って落としました。
決まった文は、二十七文字です。
ここには書きません。書くと、この文章が、その二十七文字の批評になってしまうからです。
内容だけ書いておくと、その文には「そばにいる」という意味の言葉と、「日常」という言葉が入っていました。悪くない、と私はいまでも思っています。少なくとも、四十人の平均よりは遠くまで行きました。
納棺の彼の言葉は、入りませんでした。
入れようとはしました。ワークショップで一度、「言わないこと」という切り口を出しています。反応は、良くありませんでした。営業部長が「それだと、うちが何もしていないように聞こえる」と言いました。
そのとおりだと思って、私は引っ込めました。
引っ込めるとき、私は「これは表現の問題で、意味は残せる」と自分に言いました。残せませんでした。
十二月十二日 ―― 最終報告
役員会議室に、社長と役員が六人。私とマネージャーの高瀬さんが説明しました。
私は三十分かけて、ここまでの過程を話しました。四十人のインタビューで出てきた言葉、そこから見えた共通点、九つの候補、二回のワークショップ、そして決まった二十七文字。
最後に、ボードを立てました。
社長は、しばらく黙って見ていました。
それから、「これでいきます」と言いました。声が、少し震えていました。
社長は、そのあと、父親の話をしました。創業者は十年前に亡くなっていて、その葬儀は、この会社の一号ホールでやったそうです。喪主は社長でした。
「うちの社員が、親父を送ってくれたんですよ。あのとき、誰も何も言わなかった。それが、よかった」
私は、そこで手が止まりました。
彼はいま、納棺の彼が言ったことと、ほとんど同じことを言っています。それに気づいたのは、私だけだったと思います。高瀬さんは議事録を取っていました。
私は、何も言いませんでした。ボードには、二十七文字が書いてあって、社長はそれでいきますと言ったところでした。
浸透 ―― 三分
年が明けて、浸透の支援が始まりました。
やったことは、四つです。全ホールへの掲示。名刺の裏への印刷。社内報での連載。それから、朝礼での唱和。
唱和は、私が提案しました。他社の事例で効果があったものです。
一月の下旬、私は本社のホールの朝礼に立ち会いました。
八時四十五分、二十人くらいが半円に並んで、支配人が読み上げ、全員が復唱する。三分で終わります。
声は、揃っていました。
揃っている声を聞きながら、私は、なぜか手のひらに汗をかいていました。
うまく言えないのですが、ここで唱えられている言葉が、この人たちのものではないという感じがしました。私が作ったものだから、という意味ではありません。この職場は、静かであることを大事にしてきた場所で、そこに声を出す時間を三分足したのは、私だ、ということです。
支配人は、あとで「いい取り組みだと思います」と言ってくれました。
彼は、そう言う立場の人でした。
社内報の連載は、五回で終わりました。予定は十二回でしたが、四月に人事の担当者が異動になって、引き継がれませんでした。私は五月にそれを知りました。知って、社長に言うかどうかを迷って、言いませんでした。契約は三月で終わっていました。
生活 ―― 三年前
三十五歳。年収は千百八十万円です。
この案件のあいだ、私は喪服を着る機会が三回ありました。仕事としてホールに入るときです。着ていくと、参列者に間違われることがあるので、二回目からは社員と同じ黒いスーツにしました。
十一月に、上着に線香の匂いがついているのに、電車の中で気づいたことがあります。隣の人には、たぶんわからない程度です。私にはわかりました。
三年前に、父を送っています。
葬儀社は、この会社ではありません。地元の、もっと小さいところでした。喪主は私がやりました。母が動けなかったからです。
そのとき、担当してくれた人の顔を、いまも覚えています。名前は覚えていません。四十代くらいの男性で、ずっと半歩後ろにいました。
私が焼香の順番を間違えそうになったとき、その人は何も言わずに、手のひらをこちらに向けて、少しだけ止めました。
あれが、この仕事だと思います。
案件の途中で、その記憶が何度も出てきました。出てくるたびに、私は仕事に戻りました。戻るのが正しいと思っていました。
後記 ―― 半年後
翌年の七月、フォローアップで本社に行きました。
数字は、良くなっていました。新卒の応募が、前年の一・八倍。会社説明会で二十七文字を使ったところ、学生の反応が良かったそうです。人事部長は「効きました」と言ってくれました。
ホールにも掲示されていました。受付の横の壁に、木のプレートで。
唱和は、二つのホールで続いていて、残りの十二では、いつのまにか無くなっていました。
その日、私は納棺の彼に会いました。廊下ですれ違って、向こうが先に気づいてくれました。
少し立ち話をして、私は「あの言葉、どうですか」と聞きました。
彼は「ああ」と言いました。
「壁にありますね」
それだけでした。悪意はまったくありませんでした。ただ、彼はこの半年、あの二十七文字を一度も口にしていない、ということが、その二言でわかりました。
私は「ありがとうございます」と言って、別れました。
帰りの電車で、私は自分があの二十七文字を暗唱できないことに気づきました。
三ヶ月かけて選んで、A3のボードに書いて、社長の前に立てたものです。手元の資料を見れば、すぐ出てきます。見ずには出てきませんでした。
そのことを、誰にも言っていません。ここに書くのが、初めてです。
この体験記はフィクションです。実在の企業・案件・人物とは関係ありません。
しかし、あなたが経験するであろうコンサルライフに、限りなく近い何かかもしれません。