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体験記 No. 58

僕を指名した人は、中間報告の三日前に会社を辞めた

案件ゴルフ場運営会社・コース稼働と会員制度の再設計
話の中心アサイン
語り手波多野 / 26歳・入社4年目
読了約8分 · 5,200字
案件の時間軸 ―― 着任から最終報告までの、ひと通り
アサイン
立ち上がり
仮説構築
中間報告
最終報告
会員4,200人の平均年齢68.4歳集合は朝5時40分

名指しで呼ばれるのは初めてだった。嬉しかった期間は、四ヶ月と少しで終わった――波多野が、自分を呼んだ人について書いた記録。

四月十日の朝、僕は自分の名前がメールの本文に書かれているのを見た。差出人はマネージャーで、引用されていたのはクライアントからのメールだった。「前回ご一緒した波多野さんに、ぜひ」と書いてあった。

波多野です。二十六歳。入社して四年目になる。

アサイン ―― 名指し

僕を指名したのは、宮下さんという人だった。

四十八歳。前の年に、僕は別の会社の案件で半年間、この人と一緒だった。当時、その会社の経営企画にいた。僕は下から二番目のメンバーで、主にデータの整理と議事録をやっていた。

宮下さんは、その年の冬に転職した。転職先が、今回のクライアントだ。

依頼が来たのは、その四ヶ月後だった。

マネージャーの久留島さんが「名指しだよ、よかったね」と言った。

僕は嬉しかった。四年目で、名前で呼ばれることはあまりない。うちの会社で名指しの依頼が来るのは、たいていマネージャー以上だ。

初回の打ち合わせのあと、僕は宮下さんに聞いた。なぜ僕だったんですか、と。

宮下さんは「議事録が速かったから」と答えた。

それだけだった。

僕は少し笑って、「それだけですか」と聞いた。

「うん。あれ、助かったんですよ。会議終わって三十分で出てくるやつ」

いま思うと、これは褒め言葉として、かなり正確なものだった。当時の僕にできたことは、たぶんそれだけだったからだ。

クライアント ―― 四つのコース

会社は、ゴルフ場を四つ運営していた。

十八ホールが三つと、二十七ホールが一つ。全部で八十一ホール。うち二つは都心から車で一時間半、残りは二時間を超える。

売上は四十八億円。従業員は正社員が百二十人で、キャディやレストランのパートを入れると四百人を超える。

会員は、四コース合わせて四千二百人。

初回に渡された資料の中に、会員の年齢分布があった。

平均が六十八・四歳。最頻値は七十一歳。六十歳未満は、全体の九パーセントしかいなかった。

依頼は二つだった。コースの稼働をどう上げるか。それから、会員制度をどう作り直すか。

会員制度のほうには、期限があった。四十年前に集めた預託金の償還が、四年後から順に来る。総額で、この会社の年商を超える。

立ち上がり ―― 五時四十分

四月の下旬から、僕は現地に通い始めた。

集合は、いちばん早い日で五時四十分だった。

理由は簡単で、コースは朝が仕事だからだ。最初の組が出るのが七時前。それより前に、キャディの朝礼と、コースの整備が終わっている。

僕は、電車では行けない場所だったので、レンタカーを借りた。運転は、大学のとき以来だった。四月の三度目に、駐車場でこすった。修理費が四万八千円で、経費で落ちるかどうかを久留島さんに聞いたら、「落ちない」と言われた。

朝のコースには、霧が出ていた。

三番ホールの脇に立ったとき、芝が白かった。霜だと思ったら、露だった。整備の人が「五月まではこうです」と言った。

僕は、ゴルフをやったことがない。

そのことを、宮下さんには初日に言った。宮下さんは「僕もやらないですよ」と言った。この会社の経営企画課長が、やらない。少し安心した。

キャディの人

五月に、キャディの人たちに話を聞いた。

十二人に聞いて、いちばん長い人は勤続三十一年だった。七十二歳の女性で、いまも週に四日、コースに出ている。

僕は、稼働の話を聞くつもりだった。一日に何組回るか、待ち時間はどのくらいか。

その人は、答えの途中で、名前を出し始めた。

会員の名前だった。誰は右に曲がる。誰は十四番の池を必ず避ける。誰の奥さんが去年亡くなって、そのあと三ヶ月来なかった。誰と誰は同じ組に入れてはいけない。

僕は、それを全部メモした。メモしながら、これは何のデータにもならないな、と思っていた。

実際、報告書には一行も入っていない。

その人は、最後にこう言った。

「あと五年もしたら、私が覚えてる人は、みんな来なくなりますよ」

笑って言っていた。

四十年前の約束

預託金というものを、僕はこの案件で初めてちゃんと理解した。

会員になるときに、まとまった金額を会社に預ける。会社はそれを設備に使う。会員は、決められた年数が経ったら、預けた金を返してくれと言える。

四十年前、このうちの二コースが開場したとき、預託金は一口三百万円だった。当時の物価で三百万円だ。

返す約束の期限は、開場から二十年だった。それが一度延長され、もう一度延長され、いまは四年後から順に来る。

延長のときに何があったかを、僕は総務部に残っていた議事録で読んだ。二十年前と、十年前。どちらも、会員総会での説明資料が残っていた。

十年前の資料には、こう書いてあった。「経営の健全化を図り、次期償還期限までに原資を確保する」。

原資は、確保されていなかった。

それを責める気持ちには、なぜかならなかった。十年前にこの資料を書いた人も、たぶん、確保するつもりで書いている。書いてから十年のあいだに、来場者数が減って、単価が下がって、コロナがあって、少し戻って、また減った。

僕がいま作っている資料も、十年後に誰かが読むのだと思う。

そう思ったのは、六月の、雨で仕事がない日の午後だった。総務部の隅の机で、四十年ぶんのファイルをめくっていた。指が埃で黒くなった。

支配人

六月の下旬に、四コースの支配人にそれぞれ話を聞いた。

三人は協力的だった。一人だけ、そうでない人がいた。

いちばん遠い、二十七ホールのコースの支配人だった。五十六歳。このコースに二十二年いる。

僕が来場者の分析を見せると、その人は「で、うちを閉めるって話ですか」と言った。

僕は「そういう話ではありません」と答えた。

そのときは、本当にそう思っていた。

三ヶ月後、僕はそのコースを売却候補として資料に書いた。

嘘をついたわけではない。六月の時点で決まっていたことは何もない。ただ、あの日「そういう話ではありません」と答えたことを、九月に思い出した。思い出して、資料の該当ページを二回読み直した。読み直しても、書くことは変わらなかった。

数字

六月にかけて、僕は数字を作った。

平日の稼働率が四十一パーセント、土日が八十八パーセント。ビジターの単価は平日が九千八百円、土日が一万六千四百円。メンバーの利用は全体の三割で、この比率は十年で十四ポイント下がっていた。

いちばん効いた数字は、これだった。

いまの会員がいまのペースで来なくなっていくと、六年後には、メンバーからの収入が四割減る。

これは、難しい計算ではない。年齢別の来場回数と、生存率と、退会率を掛けるだけだ。作るのに二日かかっていない。

宮下さんは、この一枚を見て、「これが欲しかったんです」と言った。

「うちの中で言うと、誰も否定しないんだけど、誰も動かないんですよ。数字がないから」

僕は、そのとき、この案件の役割がわかった気がした。

わかった気がした、というのは、そのあとの展開のことを言っている。

七月八日

中間報告は、七月十一日の予定だった。

七月八日の朝、久留島さんから電話があった。

宮下さんが、会社を辞める、という話だった。

すでに退職の手続きに入っていて、最終出社は月末。中間報告には出ない。

僕は「え」と言った。それ以外に言うことがなかった。

理由は、教えてもらえなかった。総務部長からの連絡には「一身上の都合」と書いてあった。

その日、僕は自分のパソコンで、宮下さんとやりとりしたメールを上から順に読んだ。四月から七月まで、百四十通あった。何か予兆があるかと思って読んだ。なかった。前の週のメールで、九月の視察の日程を調整している。

誰の案件か

中間報告は、予定どおり七月十一日にやった。

出席者は、社長と、総務部長と、各コースの支配人が四人。

宮下さんの席は、なかった。椅子を減らしてあった。

僕は四十分説明した。質問は三つ出た。三つとも、支配人からだった。社長は、最後に「よくわかりました」と言った。

そのあと、案件は静かになった。

後任の担当は決まらなかった。総務部長が窓口になったが、この人は本業が別にある。定例のミーティングは、月二回から月一回になった。

八月に、久留島さんに言われたことがある。

僕が出した八月末の案が、稼働の話に寄りすぎている、という指摘だった。

「これ、宮下さん向けだよね」

僕は「そうかもしれません」と答えた。

そうだった。宮下さんが「これが欲しかった」と言った一枚から、僕はずっと同じ方向に作っていた。その先にあるのは、宮下さんが社内を動かすための材料だ。

宮下さんは、もういない。

いない人のために作った材料は、残った人には重い。総務部長が欲しいのは、たぶん、四年後の償還をどう乗り切るかという一点だけだった。

僕は、八月の後半に作り直した。

最終報告 ―― 三つ

九月十九日に、最終報告をした。

出したのは、三つの選択肢だった。

一つ目。会員制度を作り直し、預託金を伴わない新しい年会費制の会員を募集する。既存会員には、償還と据え置きの選択肢を提示する。

二つ目。平日のビジター営業を強化し、送迎と食事をセットにした商品を作る。都心から遠い二コースを、この方向に振る。

三つ目。四コースのうち一つを売却し、その資金を償還に充てる。

三つ目には、対象コースの候補も書いた。いちばん遠い、二十七ホールのコースだった。会員数は千百人。キャディの平均勤続が長いのも、そこだった。

社長は、二時間、質問をし続けた。真剣だった。

最後に「持ち帰らせてください」と言った。

僕は「はい」と答えた。

会議室を出て、駐車場まで歩いた。九月の午後で、まだ暑かった。芝の匂いがした。

そのとき、僕が思ったのは、宮下さんがこの場にいたら何を言っただろう、ということだった。

たぶん、何も言わなかったと思う。決めるのは社長で、宮下さんは課長だった。宮下さんにできたのは、社長に「持ち帰らせてください」と言わせないための根回しだけで、それはもう、誰もやっていない。

生活 ―― 眠い

二十六歳。年収は六百八十万円。

五時四十分集合の日は、三時半に起きた。家は会社から二十分の1Kで、家賃は九万一千円。

四月から九月まで、平均すると週に二回、その時間に起きていた。

朝、コンビニでおにぎりを二つ買う。いつも同じ組み合わせだった。鮭と、昆布。車の中で食べる。前の年は、この時間に寝ていた。

七月に、健康診断があった。何も引っかからなかった。ただ、視力が両目とも〇・一下がっていた。

九月の最終報告の日、帰りの高速で、サービスエリアに入って三十分寝た。寝ようと思ったわけではなくて、駐車して、目を閉じたら寝ていた。起きたら、隣に大型トラックが止まっていた。

同期と飲んだのは、六月に一回だけだった。四年目になると、みんな別のクライアントの話をする。話を聞いていると、自分の案件がいちばん地味に思えた。ゴルフ場の会員の平均年齢の話をしたら、一人が「それ、うちの親だ」と言って笑った。

笑ったあとで、その同期が「でも、それって要するに、あと何年で終わるかって話でしょ」と言った。

僕は「そうだね」と答えた。そのとおりだった。僕は四ヶ月、それを数えていた。

後記 ―― 連絡していない

翌年の三月、社内の別の案件で、前に一緒だった人から宮下さんの話を聞いた。

宮下さんは、いま、別の会社にいるらしい。業種は全然違う。役職は、聞かなかった。

その人が「なんか、体調崩されてたみたいですよ」と言った。「みたい」というのが、どこまで本当かはわからない。

僕は、連絡していない。

理由は、うまく言えない。メールアドレスは残っている。会社のものだから、もう届かない。個人の連絡先は、聞いたことがなかった。半年間、毎週会っていて、聞いていない。

三つの選択肢のうち、どれが選ばれたのかも、僕は知らない。

一つだけ、たまに考えることがある。

僕が指名されたのは、議事録が速かったからだ。それは、あの半年でいちばん役に立ったことだった。

四つのゴルフ場の会員制度をどうするかについて、僕が四ヶ月かけて出した三つの案よりも、たぶん、あのときの議事録のほうが、あの人の役に立っている。

それは、少し可笑しい。可笑しいと思うことにしている。

ことわり

この体験記はフィクションです。実在の企業・案件・人物とは関係ありません。

しかし、あなたが経験するであろうコンサルライフに、限りなく近い何かかもしれません。

この話の翌週、あなたなら何をする?

同じ現場に立ったとき、どう動くタイプなのか。16問で当たりをつけられます。

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