僕を指名した人は、中間報告の三日前に会社を辞めた
名指しで呼ばれるのは初めてだった。嬉しかった期間は、四ヶ月と少しで終わった――波多野が、自分を呼んだ人について書いた記録。
四月十日の朝、僕は自分の名前がメールの本文に書かれているのを見た。差出人はマネージャーで、引用されていたのはクライアントからのメールだった。「前回ご一緒した波多野さんに、ぜひ」と書いてあった。
波多野です。二十六歳。入社して四年目になる。
アサイン ―― 名指し
僕を指名したのは、宮下さんという人だった。
四十八歳。前の年に、僕は別の会社の案件で半年間、この人と一緒だった。当時、その会社の経営企画にいた。僕は下から二番目のメンバーで、主にデータの整理と議事録をやっていた。
宮下さんは、その年の冬に転職した。転職先が、今回のクライアントだ。
依頼が来たのは、その四ヶ月後だった。
マネージャーの久留島さんが「名指しだよ、よかったね」と言った。
僕は嬉しかった。四年目で、名前で呼ばれることはあまりない。うちの会社で名指しの依頼が来るのは、たいていマネージャー以上だ。
初回の打ち合わせのあと、僕は宮下さんに聞いた。なぜ僕だったんですか、と。
宮下さんは「議事録が速かったから」と答えた。
それだけだった。
僕は少し笑って、「それだけですか」と聞いた。
「うん。あれ、助かったんですよ。会議終わって三十分で出てくるやつ」
いま思うと、これは褒め言葉として、かなり正確なものだった。当時の僕にできたことは、たぶんそれだけだったからだ。
クライアント ―― 四つのコース
会社は、ゴルフ場を四つ運営していた。
十八ホールが三つと、二十七ホールが一つ。全部で八十一ホール。うち二つは都心から車で一時間半、残りは二時間を超える。
売上は四十八億円。従業員は正社員が百二十人で、キャディやレストランのパートを入れると四百人を超える。
会員は、四コース合わせて四千二百人。
初回に渡された資料の中に、会員の年齢分布があった。
平均が六十八・四歳。最頻値は七十一歳。六十歳未満は、全体の九パーセントしかいなかった。
依頼は二つだった。コースの稼働をどう上げるか。それから、会員制度をどう作り直すか。
会員制度のほうには、期限があった。四十年前に集めた預託金の償還が、四年後から順に来る。総額で、この会社の年商を超える。
立ち上がり ―― 五時四十分
四月の下旬から、僕は現地に通い始めた。
集合は、いちばん早い日で五時四十分だった。
理由は簡単で、コースは朝が仕事だからだ。最初の組が出るのが七時前。それより前に、キャディの朝礼と、コースの整備が終わっている。
僕は、電車では行けない場所だったので、レンタカーを借りた。運転は、大学のとき以来だった。四月の三度目に、駐車場でこすった。修理費が四万八千円で、経費で落ちるかどうかを久留島さんに聞いたら、「落ちない」と言われた。
朝のコースには、霧が出ていた。
三番ホールの脇に立ったとき、芝が白かった。霜だと思ったら、露だった。整備の人が「五月まではこうです」と言った。
僕は、ゴルフをやったことがない。
そのことを、宮下さんには初日に言った。宮下さんは「僕もやらないですよ」と言った。この会社の経営企画課長が、やらない。少し安心した。
キャディの人
五月に、キャディの人たちに話を聞いた。
十二人に聞いて、いちばん長い人は勤続三十一年だった。七十二歳の女性で、いまも週に四日、コースに出ている。
僕は、稼働の話を聞くつもりだった。一日に何組回るか、待ち時間はどのくらいか。
その人は、答えの途中で、名前を出し始めた。
会員の名前だった。誰は右に曲がる。誰は十四番の池を必ず避ける。誰の奥さんが去年亡くなって、そのあと三ヶ月来なかった。誰と誰は同じ組に入れてはいけない。
僕は、それを全部メモした。メモしながら、これは何のデータにもならないな、と思っていた。
実際、報告書には一行も入っていない。
その人は、最後にこう言った。
「あと五年もしたら、私が覚えてる人は、みんな来なくなりますよ」
笑って言っていた。
四十年前の約束
預託金というものを、僕はこの案件で初めてちゃんと理解した。
会員になるときに、まとまった金額を会社に預ける。会社はそれを設備に使う。会員は、決められた年数が経ったら、預けた金を返してくれと言える。
四十年前、このうちの二コースが開場したとき、預託金は一口三百万円だった。当時の物価で三百万円だ。
返す約束の期限は、開場から二十年だった。それが一度延長され、もう一度延長され、いまは四年後から順に来る。
延長のときに何があったかを、僕は総務部に残っていた議事録で読んだ。二十年前と、十年前。どちらも、会員総会での説明資料が残っていた。
十年前の資料には、こう書いてあった。「経営の健全化を図り、次期償還期限までに原資を確保する」。
原資は、確保されていなかった。
それを責める気持ちには、なぜかならなかった。十年前にこの資料を書いた人も、たぶん、確保するつもりで書いている。書いてから十年のあいだに、来場者数が減って、単価が下がって、コロナがあって、少し戻って、また減った。
僕がいま作っている資料も、十年後に誰かが読むのだと思う。
そう思ったのは、六月の、雨で仕事がない日の午後だった。総務部の隅の机で、四十年ぶんのファイルをめくっていた。指が埃で黒くなった。
支配人
六月の下旬に、四コースの支配人にそれぞれ話を聞いた。
三人は協力的だった。一人だけ、そうでない人がいた。
いちばん遠い、二十七ホールのコースの支配人だった。五十六歳。このコースに二十二年いる。
僕が来場者の分析を見せると、その人は「で、うちを閉めるって話ですか」と言った。
僕は「そういう話ではありません」と答えた。
そのときは、本当にそう思っていた。
三ヶ月後、僕はそのコースを売却候補として資料に書いた。
嘘をついたわけではない。六月の時点で決まっていたことは何もない。ただ、あの日「そういう話ではありません」と答えたことを、九月に思い出した。思い出して、資料の該当ページを二回読み直した。読み直しても、書くことは変わらなかった。
数字
六月にかけて、僕は数字を作った。
平日の稼働率が四十一パーセント、土日が八十八パーセント。ビジターの単価は平日が九千八百円、土日が一万六千四百円。メンバーの利用は全体の三割で、この比率は十年で十四ポイント下がっていた。
いちばん効いた数字は、これだった。
いまの会員がいまのペースで来なくなっていくと、六年後には、メンバーからの収入が四割減る。
これは、難しい計算ではない。年齢別の来場回数と、生存率と、退会率を掛けるだけだ。作るのに二日かかっていない。
宮下さんは、この一枚を見て、「これが欲しかったんです」と言った。
「うちの中で言うと、誰も否定しないんだけど、誰も動かないんですよ。数字がないから」
僕は、そのとき、この案件の役割がわかった気がした。
わかった気がした、というのは、そのあとの展開のことを言っている。
七月八日
中間報告は、七月十一日の予定だった。
七月八日の朝、久留島さんから電話があった。
宮下さんが、会社を辞める、という話だった。
すでに退職の手続きに入っていて、最終出社は月末。中間報告には出ない。
僕は「え」と言った。それ以外に言うことがなかった。
理由は、教えてもらえなかった。総務部長からの連絡には「一身上の都合」と書いてあった。
その日、僕は自分のパソコンで、宮下さんとやりとりしたメールを上から順に読んだ。四月から七月まで、百四十通あった。何か予兆があるかと思って読んだ。なかった。前の週のメールで、九月の視察の日程を調整している。
誰の案件か
中間報告は、予定どおり七月十一日にやった。
出席者は、社長と、総務部長と、各コースの支配人が四人。
宮下さんの席は、なかった。椅子を減らしてあった。
僕は四十分説明した。質問は三つ出た。三つとも、支配人からだった。社長は、最後に「よくわかりました」と言った。
そのあと、案件は静かになった。
後任の担当は決まらなかった。総務部長が窓口になったが、この人は本業が別にある。定例のミーティングは、月二回から月一回になった。
八月に、久留島さんに言われたことがある。
僕が出した八月末の案が、稼働の話に寄りすぎている、という指摘だった。
「これ、宮下さん向けだよね」
僕は「そうかもしれません」と答えた。
そうだった。宮下さんが「これが欲しかった」と言った一枚から、僕はずっと同じ方向に作っていた。その先にあるのは、宮下さんが社内を動かすための材料だ。
宮下さんは、もういない。
いない人のために作った材料は、残った人には重い。総務部長が欲しいのは、たぶん、四年後の償還をどう乗り切るかという一点だけだった。
僕は、八月の後半に作り直した。
最終報告 ―― 三つ
九月十九日に、最終報告をした。
出したのは、三つの選択肢だった。
一つ目。会員制度を作り直し、預託金を伴わない新しい年会費制の会員を募集する。既存会員には、償還と据え置きの選択肢を提示する。
二つ目。平日のビジター営業を強化し、送迎と食事をセットにした商品を作る。都心から遠い二コースを、この方向に振る。
三つ目。四コースのうち一つを売却し、その資金を償還に充てる。
三つ目には、対象コースの候補も書いた。いちばん遠い、二十七ホールのコースだった。会員数は千百人。キャディの平均勤続が長いのも、そこだった。
社長は、二時間、質問をし続けた。真剣だった。
最後に「持ち帰らせてください」と言った。
僕は「はい」と答えた。
会議室を出て、駐車場まで歩いた。九月の午後で、まだ暑かった。芝の匂いがした。
そのとき、僕が思ったのは、宮下さんがこの場にいたら何を言っただろう、ということだった。
たぶん、何も言わなかったと思う。決めるのは社長で、宮下さんは課長だった。宮下さんにできたのは、社長に「持ち帰らせてください」と言わせないための根回しだけで、それはもう、誰もやっていない。
生活 ―― 眠い
二十六歳。年収は六百八十万円。
五時四十分集合の日は、三時半に起きた。家は会社から二十分の1Kで、家賃は九万一千円。
四月から九月まで、平均すると週に二回、その時間に起きていた。
朝、コンビニでおにぎりを二つ買う。いつも同じ組み合わせだった。鮭と、昆布。車の中で食べる。前の年は、この時間に寝ていた。
七月に、健康診断があった。何も引っかからなかった。ただ、視力が両目とも〇・一下がっていた。
九月の最終報告の日、帰りの高速で、サービスエリアに入って三十分寝た。寝ようと思ったわけではなくて、駐車して、目を閉じたら寝ていた。起きたら、隣に大型トラックが止まっていた。
同期と飲んだのは、六月に一回だけだった。四年目になると、みんな別のクライアントの話をする。話を聞いていると、自分の案件がいちばん地味に思えた。ゴルフ場の会員の平均年齢の話をしたら、一人が「それ、うちの親だ」と言って笑った。
笑ったあとで、その同期が「でも、それって要するに、あと何年で終わるかって話でしょ」と言った。
僕は「そうだね」と答えた。そのとおりだった。僕は四ヶ月、それを数えていた。
後記 ―― 連絡していない
翌年の三月、社内の別の案件で、前に一緒だった人から宮下さんの話を聞いた。
宮下さんは、いま、別の会社にいるらしい。業種は全然違う。役職は、聞かなかった。
その人が「なんか、体調崩されてたみたいですよ」と言った。「みたい」というのが、どこまで本当かはわからない。
僕は、連絡していない。
理由は、うまく言えない。メールアドレスは残っている。会社のものだから、もう届かない。個人の連絡先は、聞いたことがなかった。半年間、毎週会っていて、聞いていない。
三つの選択肢のうち、どれが選ばれたのかも、僕は知らない。
一つだけ、たまに考えることがある。
僕が指名されたのは、議事録が速かったからだ。それは、あの半年でいちばん役に立ったことだった。
四つのゴルフ場の会員制度をどうするかについて、僕が四ヶ月かけて出した三つの案よりも、たぶん、あのときの議事録のほうが、あの人の役に立っている。
それは、少し可笑しい。可笑しいと思うことにしている。
この体験記はフィクションです。実在の企業・案件・人物とは関係ありません。
しかし、あなたが経験するであろうコンサルライフに、限りなく近い何かかもしれません。